CAFE MILO オーナーシェフ  小林茂氏 インタビュー

日本、フランス、オーストラリアで経験を経て、1997年に「カフェ・ミロ」CAFE MIROをオープンした小林氏。ハワイ在住者のみならず、日本やアメリカ本土にも多くファンを持ち、1999年には、ニューヨークのグルメマガジン誌で、「AMERICA’S TOP TABLES」を受賞。そんな人気店をハワイで17年にもわたり経営する小林氏に、これまでの経緯や成功の秘訣をインタビュー!

 


 

―どのようなきっかけで、料理の道に入られたのですか?

 

小林氏: 生まれは、熊本の天草というところです。小さな島々の間に夕日が沈み、海には真珠のいかだが浮かぶ、のどかで自然豊かな所です。一言でいうとド田舎なのですが(笑)

 

私の母は決して料理は下手ではありませんでしたが、幼い頃に食卓に並ぶのはいつも田舎料理ばかりでした。それで洒落た西洋の料理も食べてみたいと思い、中学生の頃からカレーライスやビーフシチューなど自分で作るようになりました。

 

それで、大学に入った時にアルバイトをしたのが、料理を作れて食事が出ることで迷わず喫茶店のキッチンの仕事を選んだのです。フライパンを振ってピラフやスパゲティーナポリタンなどを作っていました。それが結構楽しくて、だんだんちゃんとしたものを勉強したいなと思うようになり、次に洋食屋さんでアルバイトをするようになったのです。 そうしたら、本当に面白くなってしまい大学を途中で辞め、そこのシェフの紹介で熊本で1・2を争うに大きいホテルを紹介してもらいました。それがフランス料理の道に入ったきっかけです。

 

 

―そのホテルにはどれ位いらしたんですか?

 

小林氏: 3年くらいいました。

ホテルで働いている時には、パーティーの料理を作るバンケットやホテル最上階の高級レストラン、また街中に出店していたフレンチレストランなどで働きました。その時のシェフが、ヨーロッパで5年間くらい働かれた経験のあるシェフで、フランス、ドイツ、スイスでの話をよく聞かせてもらいました。その影響でいつかは自分もフランスに行って働きたいという気持ちが強くなりました。しかし、どうしたらフランスで働けるのか、何から始めたらよいのか分かりませんでした。

 

ある時、以前私の姉がオーストラリアに2年間住んでいた時にお世話になった商社経営の方にお会いする機会があり、メルボルンのフランチレストランでスーシェフ(シェフの次のポジション)を探している事を聞きました。それで、どうにかそこで働けないものかお願いしたのです。

 

 

―オーストラリアでフレンチですか?

 

小林氏: とにかくお箸ではなく、ナイフとフォークを使う食文化の所に行ってみようと思ったのです。

その店は当時オーストラリアの財務大臣の奥様が経営されていた「Joyeux」というフレンチレストランで、そのご夫婦はエリザベス女王との晩餐会やダイアナ妃の結婚式にも招かれるほどの人でした。

その頃私は、まだ22歳だったのでワーキングホリデーのビザを急いで取りオーストラリアに渡りました。しかし英語が全く分からない訳ですから、面接に行っても会話にならず変なのが来たものだと怪訝そうな顔で私を見ていました。 しかし紹介者の顔を立てどうにか2週間タダ働きなら様子をみましょう、という事になりました。つまり2週間テストしてダメならクビってことです。

 

店はスーシェフが欲しいわけで、言葉ができない私には結構ハードルが高かったのです。それでどうしたかというと、とにかくいつもニコニコ笑顔で好印象を皆に与えるという作戦を取りました。

 

朝は「Good Morning」で始まり、仕事がスタートすると「Give me job」

終わったら「Finish・ Next・Please」この繰り返しの2週間でした。そしていつもニコニコ笑顔で(爆笑)

 

言葉はできなくても、仕事をやらせたら誰にも負けず手早く奇麗だったので、その腕を買われたのかニコニコ作戦が成功したのか、その後もう1ヶ月テスト期間を延長してくれました。今度は給料を少しながら貰いました。そして1ヶ月が過ぎ、またオーナーに呼ばれました。英語は上手くなってはいないが仕事にも慣れてきたという事で正式に雇ってもらえることになったのです。

 

 

―晴れて、オーストラリアのレストランで従業員になられたんですね。

 

小林氏: 日本を出る時に送別会やら餞別をもらっていたので2週間でクビになって帰るわけにはいかなかったので首の皮一枚で繋がりほっとしました。しかしながら、どうにか英語を早く上達せねばならず、その為に極力日本人との繋がりを絶ち、日本語を使わないようにしました。現地の人と一緒に暮らすのが上達の早道と聞き、アパートでオーストラリア人の女性とシェアし始めました。オーストラリアはゲイが多くその道に入りたくなかったら男は絶対やめろと周りから強く言われたからです。現に店のウエイターやクックの中にも何人かゲイがいました。

 

「Joyeux」で働いている時の2度シェフが代わりました。そして3人目のシェフを探す事になり遂にそれがShigeru Kobayashiに任命されたのです。その時若干24歳でした。それを期に、給料も当時の円換算で月額手取り25万円から50万円になりました。それも週休2日半という待遇で。まさにパラダイスでした。シェフの仕事は当たり前の事ながら、メニューを書き、市場に仕入れに行き、電話で業者への発注、お客様にご挨拶したりと、今考えるとよくやったものだと感心します。

 

 

―とても若くしてシェフになられたのですね。

 

小林氏: はい。たまたま私はラッキーでしたが、店側としてはお客様が満足する料理が作れて、利益を上げられるのであれば歳は関係ないでしょうから。そうこうしてメルボルンの生活も 2年が過ぎた頃のこと、フランスでミシェラン二つ星の店のシェフを招いてのイベントがありました。そのシェフに会うことができ働かせてくれないかと直談判したのです。そうしたらあっさり「いいよ。来いよ」と簡単に決まってしまったのです。それから半年ほどして オーストラリアを出て日本経由でフランスに向かったのです。

 

 

―やっと念願のフランスに着かれたわけですね。

 

小林氏: アンカレッジを経由し、あまり寝れないまま早朝にシャルル・ドゥ・ゴール空港に着きました。

さあこれからどうしよう。初日の予定は、ムフタールという場所に、石丸さんという日本人でパリにフレンチレストランを開いておられる方の所に友人からの預かり物を持って行くことでした。タクシーで行くこともできましたが、着いたばかりで甘えてはならねという気持ちから電車やメトロを乗り継いで行くことにしました。

それが大きな間違いで、重いスーツケースを持っての移動途中メトロの乗換えでジプシーの子供達に取り囲まれ、あっという間に両替したばかりの20万円相当のフランを盗まれてしまいました。

憎っくきチビッコギャング(涙)…着いて早々パリの洗礼を受けたのです。

 

石丸さんのレストランにたどり着いたのは、丁度お昼のランチが終わった頃でした。スリに遭ったことを伝えるとパリでは日常茶飯事の出来事のようで、あっさり貴方もですかという様子でした。 そして朝から何も食べていないペコペコの私に従業員と一緒にまかないを食べさせてくれました。その時の一品がお客に出した残りのラングスティーヌ(手長エビ)の頭を白ワインで蒸しただけのシンプルなものでしたが、その新鮮で美味しかった味は今でも忘れません。大変な始まりの日でしたが、こんな美味しいものが食べられる国に来たんだという期待で胸がいっぱいになりました。そして見知らぬ土地での人の優しさに目頭が熱くなりました。

 

 

―その時は、フランス語は話せたのですか?

 

小林氏: フランス語は少しは喋れたんです。オーストラリアでもフランス人と働いている時もありましたし、フランス行きが決まってからはフランス語のクラスを取り勉強しました。

 

日本で仕事している時メニューは全てフランス語でした。大学は1年間ですがフランス語を専攻していたので、だいだいの文法の流れは分かっていたのです。日本から直接フランスに行くよりも、英語圏でだいだい英語がわかるようになってからフランスに行ったので、そういう面では楽でした。

 

それに、フランス人もジュヌパルレパアングレ。英語はしゃべれないと言いながらも若い人は少しはわかるんです。私が働いたレストランにも15人クックがいましたが、喋れる人が結構いました。そこはアヴィニョンのエルミタージュ・メソニエというレストランでした。 当時、そこのシェフは和訳するとフランス料理最高技術委員会?みたいなところの会長で日本からもいつも研修の日本人がいました。彼らとの区別で私はシェフから「ジャポネオストラリ」オーストラリアからきた日本人と呼ばれていていました。

 

その店で最初に受け持ったのがガルドマンジェの仕事で前菜を作る所でした。入って3日目のこと、私が仕事しているにも関わらず、一人のフランス人が「ジャポネどけ」と突き飛ばしたのです。シゲルどけならまだ許せたのでしょうがジャポネといわれた事でプッツン切れてしまい、その瞬間私の背中から君が代と共に日の丸が揚がり、そいつの胸元をつかみ床に投げつけていました。

 

これは皆から袋叩きにあうなと思いつつも全員と戦う気満々で周りを見回しました。丁度その時シェフが厨房に入って来たので難なきを得たのですが。しかしながら、翌日から店のフランス人全員が私に対しとてもとても親切に好意的になりました。そうこうしてその店で約1年間南仏プロヴァンスの料理を学びました。

 

 

―その後は、どうされたのですか?

 

小林氏: フランスで働いている時にオーストラリアの仕事仲間から戻ってきてくれないかというオファーがあったんです。フランスもいいけれど、1年で持っていった200万円も休みの日に有名店の食べ歩きをしていたので底を付いてきました。初日に20万円使ったので(苦笑)

 

それでオーストラリアにまた戻ることにしたのです。しかし、日本に帰ってオーストラリア大使館にビザの申請に行ったところ、貴方は少し問題があるので審査に時間がかかりますと言われたのです。というのも1年間のビザで、3年間滞在していたからです。レストランのオーナーが政治家だったので、永住ビザが取れるまで居ればいいよ、と気楽に「No Worries Mate」の調子だったのです。しかしビザ取れる前にオーストラリアを出てしまったので結果的には2年間の不法滞在になってしまったのです。

 

 

―ビザが取れるまでの間は、どうされていたのですか?

 

小林氏: 審査の結果が出るまで東京の友人のところに居候していましたが、いつ結果が出るか分からない中、毎日遊んでいる訳にもいかず、お金も必要なので何かアルバイトをすることにしました。 足止めをくって気が落ち込んでいる中、あまり頭を使わない簡単な仕事でもしようと思い求人誌で見つけたレストランの皿洗いの募集に行ったのです。

 

 

でもそこの支配人は「本当に皿洗いでいいのですか?」って言う訳です。それもそのはず履歴書にはオーストラリアでのシェフの経歴やフランスでの職歴が書いて在るのですから。先方も使い辛そうでしたがどうにか皿洗いとして雇ってくれました。芋の皮むきやら料理の手伝いまで何でも出来るわけですから最強の皿洗いでした (爆笑)

 

そこに入って3日目の事(3日目には何かが起きる)

シェフから「友人の結婚式に出席する為に田舎に帰るので、居ないあいだ小林君シェフをやってくれないか」と言われたのです。そして初めてメニューを見せて貰い、その3日間だけ他のクックの上に立って無事にシェフを務めました。勿論、シェフが戻ってきたら元の職場の皿洗いです。ビザの結果が出るまで半年間、一生懸命お皿を洗い続けました。

 

結局、大使館からの答えは「ビザは出せません」という事でした。それなら折角この店に入ったのだから正社員として働かせて貰う事に決め、その旨を支配人に伝えたところ翌月から皿洗いからいきなりシェフになりました。その店は東京都内に4店舗構える地中海料理の店で、築地のエビカニの中卸会社が母体でした。その為、新鮮な食材が廉価で入り原価を余り気にせず働ける、結構面白い店でした。

 

 

―オーナーもラッキーでしたね。小林さんが皿洗いの募集で来てくれて(笑)

 

小林氏: シェフになってからは既存の定番メニューに加え、その日に仕入れた食材で料理も値段もお任せというようなものも出していきました。結果4年後には売上げを2倍にしました。

それが1986年~1990年のまさにバブルの真っ只中のことです。

世の中では株価や住宅の値段が高騰し景気の良い話ばかりでしたが、私自身はというと早朝から築地に買い出しに行って夜遅くまで。睡眠時間も4、5時間しかとれないくらいに働いている割には薄給だったので、このままで良いのだろうかと自分の将来に不安を感じ始めてきたのです。

 

 

―レストランのお仕事は働く時間が長いですものね。

 

小林氏: ちょうどそんな時に、オーストラリア時代の友人で、ある武道具の製造元の息子から 二人で独立して海外への武道具のメールオーダーの会社を始めないかとの誘いがありました。全く畑違いの仕事だったので迷いましたが、自分の新たな可能性にチャレンジすることにし、京都に二人で会社を興しました。

 

 

―フレンチシェフから武道具販売とは、また面白いですね。

 

小林氏: そうですね。いきなり営業マンですから。

手始めに全て英語で書かれた、日本で最初の…いや、世界初の剣道のメールオーダーカタログを作りました。それを持ちフランスに渡りアパートを借りてそこを中心に殆どの西ヨーロッパの国の道場を廻りました。天秤棒ではなく竹刀をかついでの行商でした。ヨーロッパの次にはアメリカ、カナダ、オーストラリア、東南アジアと一年中殆ど何処かの国を旅している状態でした。

 

 

―剣道はされていたんですか?

 

小林氏: 学生の時には空手部主将をやっており段も持っていますが、剣道は学校の教科でやっただけでした。しかしセールスに行くには剣道が出来ないと話にならないということで京都の道場に通い始めたのです。訪れた道場で一緒に稽古で汗を流し親睦を深め、稽古が終わった後にパブで酒を飲みながら営業するという作戦でした。ただ稽古を見学しているだけでは皆の中に入っていけませんから。

 

 

―それが、小林さんが30歳の時ですか。

 

小林氏: にわか仕込みで剣道を始めてはみたものの所詮は素人です。最初に訪れたパリの道場ではフランス人にボコボコにされ彼らから面の打ち方を学びました。

私は身長が180cmあり防具は100万くらいする高価な物を着けていたので、何処から見ても先生でした。構えだけは(笑)

しかしそうやって毎日毎日初めての人と道場破りみたいな稽古していくうちに、短期間に本当に強くなっちゃったんです。世界大会に出る様な剣士とも結構互角に戦っていました。

 

しかし訪れた道場では相手の技量を知るためなのか、それが礼儀なのか知りませんがいつも「小林先生、何段ですか?」といつも尋ねられるのです。段を持っていない私には本当のことを言えず、「言うまでもございません。たいした段ではございません」とごまかしていました。 これは本当に段を取らなくてはならないと思い京都に帰り、初段そして二段を取ったんです。

 

 

―ビジネスの方はどうだったんですか?

 

小林氏:社名は京都・・堂といかにも老舗の様な名前にしたのですが、出来たばかりの新しい会社なので、誰も知っているはずもなく、その中での営業は最初とても厳しいものがありました。

段々円高に向かってた頃なので、尚更大変でした。しかしながら(道場で一緒に稽古汗流し作戦)の効果でしょうか…3年目くらいして、どうにか軌道に乗ってきました。

 

6年ほどその仕事をしましたが、やはり私は料理を作る方が好きだという事を他の仕事をやってみて改めて感じました。段々メールオーダーの仕事が自分には一生の仕事と思えなくなってきたのです。それでその会社は勝手ながらパートナーに任せて、また料理の道に戻ろうと決めたのです。その会社も今では創業20年以上経ち年商何十億を売り上げる本当の老舗になりました。

 

 

―「本業」に戻ったわけですね。

 

小林氏: 東京や熊本に戻る事も考えましたが、地元のしがらみの中に入っていくのも何だか窮屈そうで。 調べたところアメリカには投資のビザがあると知り、それでハワイはどうかなと考えたのです。

ハワイは剣道の仕事で始めて訪れた所で、毎年営業で来ていたので土地勘はあったのです。 しかし、いざ外国に会社を興し店を出店するということはそれほど簡単ではなく、日本でやるよりも言葉や法律の違いもあり何十倍も大変でした。

 

場所探しから始まり、コントラクター、弁護士、会計士、従業員の面接、仕入れ業者探しなど殆ど全て一人でやりました。一年かけてやっと今の場所が決まり、工事が始まってはみたものの、設計士とコントラクターとの折り合いが合わず、3ヶ月間工事が中断してしまいました。

その時はこのまま資金が尽きるまで家賃を払い続け、店をオープンできないまま一文無しなるのかと考えると胃がキリキリ痛み寝むれませんでした。

 

でもどうにか神様に見捨てられる事もなく、1997年7月8日にやっとオープンする事が出来ました。

今だから言えるのですが、その時店の銀行残高は1万ドルを切っていました。

 

 

―店をオープンされた後はどうでしたか?

 

小林氏: 広告は一切しなかったので(広告費がなかった、苦笑)初日15人、翌日10人、という具合で、お客様はパラパラでした。しかし7年の間に錆付いた腕には充分すぎる人数でした。

日本から連れてきたフランス帰りの後輩の助けもあって店は順調に客数を増やし、1ヶ月後の8月8日には満席になりました。それから間もなくして年末のホリデーシーズンに入ったことも助けになり、その後は順調に売上げを伸ばして行きました。

 

 

―食材の仕入れはどうされましたか。

 

小林氏: ハワイのどのレストランでも働いた事がなかったので、仕入れ業者を全く知りませんでした。しかし、チャイナタウンに行けば魚も野菜も売っているし、コスコに行けば色々な物が売っていたので、これで十分できると思いました。あと色々なレストランに食べに行った時に食材の仕入先を教えてもらい少しずつ探りあてて行きました。

 

 

―ハワイの食材で問題はありませんでしたか?

 

小林氏: 値段的には、フランス料理を日本で作るととても高いものになるんです。 生クリームもバターも高いので。

それに比べるとハワイの食材は安いと思いました。 だから$15のコース料理が出せたのです。

もちろん日本に比べ魚の種類も少ないし、野菜は形が揃っておらず、曲がったものでも平気で売っているし、クオリティーは低いかもしれませんが、それを言ったら他の店も一緒ですから。だったら、手に入る食材のなかで創意工夫していくしかありません。

 

とは言えオープン当時に比べると、生産者や輸入業者さんの努力で食材の種類も随分増えました。ハワイ島で養殖しているアワビやカンパチなどは素晴らしい食材だと思います。料理の80%は食材の良し悪しで決まります。それに手を加え100%にするのも、それ以下にするのも料理人次第ですから、こういう良い食材がハワイでも手に入るようになったことは嬉しい限りです。

 

和食の食材やテクニックも使ったあっさりとしたフレンチが多くの方に好まれている

 

 

―ハプニングなどもありましたか?

 

小林氏: ハプニングというより、最初の頃は色んなタイプのお客様が一緒の状態でした。 お洒落してくる人もいれば、Tシャツ・短パン・ビーチサンダル、アイスボックス持参で来る人もいました(笑)

居酒屋感覚で盛り上がり、他のテーブルのお客様が会話できないほど騒ぐ人もいました。 勿論そういう時には私が注意しに出て行き、結果二度と来てはもらえなくなりましたが。

1つのコースメニューを、お腹が空いてないから2人でシェアしたいと言われても、 「出来ません。お腹が空いてからお越し下さい」とお断りもしました。

 

全て受け入れてしまうとお店のカラーを無くし、折角楽しみに来て頂いたお客様が不愉快な思いをされ、結果そのお客様さえも失くしてしまうからです。 そういうこともありドレスコードは、短パン・ビーチサンダルでのご来店はご遠慮いただいております。

 

 

―店名の「Cafe Miro」の由来は何ですか?

 

小林氏: 最初は「Figaro(フィガロ)」という名前にしようと思ってたのですが、それはスーパーで売っているキャットフードと同じ名前だったんです(笑)

これではダメだと思い何にしようかと考えてる時に、友人からピカソというレストランがあるから、同じスペインの画家のジョン・ミロから取って「MIRO」がいいんじゃないかと言われたんです。ざまーみろではありませんよ。

でもどうしても4文字にしたかったんです。「ミツコシ」「イセタン」「キムタク」とかのようにね(笑)

4文字の名前は頭に残る様な事を聞いたもので。

それで「Cafe Miro (カフェミロ)」にしたのです。みんなが気軽に来られるカフェのようなブラッスリーのような。でも、最初はコーヒーショップと思って来た人もいました。

 

スペインの画家のジョン・ミロから取った店名。お店にはミロの絵画が。

 

 

―「Cafe Miro」素敵な名前ですよね。

 

小林氏: 有難うございます。

名前っていうのは、最初の1年目はヨチヨチ歩きの赤ちゃんと同じで、まだ人格もないし、それが、1年、2年、5年、10年と経ってくるに連れ「Cafe Miro」自体に人格が出てくるんです。最初は、小林の「Cafe Miro」だったのが、今では一人歩きしている別ものなんです。だから、僕はこの名前を汚さないように頑張らなければいけないなといつも思っています。

 

 

―ハワイでレストラン経営は大変だと思うのですが、Cafe Miroさんの成功の秘訣は何でしょうか。

 

小林氏: 成功と言えるかどうかは分かりませんが、漕ぎ出した船だったので後には戻れず「もうやるしかない」という崖っぷちの気持ちで頑張ったからでしょうか。ホノルルの飲食店は5から10パーセントしか生き残れないという中で17年続けていられるのは有難い事です。

ご愛顧いただいているお客様に本当に感謝いたします。

 

今から考えますとCafé Miro(カフェ・ミロ)が結果的に良かったのは、大々的にグランドオープンみたいなことをしなかったからだと思います。オープンから多くの人が押し寄せたら満足な料理も出せずサービスも行き届かなかったでしょうから、あっという間に悪い評判が立ち、今ここにカフェミロは無かったでしょう。

 

最初は少ない客数ではありましたが、来ていただいたお客様に心を込めた料理を出す事に努め ました。慣れない土地でのオープンだったので至らない所も多く、その都度改善していきました。その結果口コミで少しずつお客さまを増やせていけたのが良かったのでしょう。

それと日本人が作るフレンチなので、和食の食材やテクニックも使い、フレンチフレンチしていない所があっさりとして好まれたのでしょう。いまや本場のフランスでも醤油や味噌などを使うのは当たり前のようです。

 

それとオープンした頃は値段もコース料理で$15と$25とお値打ちでしたので。今ではむかしに比べコースの値段も上がりましたが、しかしその分ステーキ肉のグレードも上がりアワビやロブスターなどの高級食材も使えるようになりメニューのバラエティーが増えたたことは料理人として嬉しい限りです。

 

全米No1のレストランガイド、ZAGATでも好評化を得た

 

 

―テーブルや衝立もご自分で作られたと聞きしたのですが。

 

小林氏: 2005年に拡張した時にもっとゆっくり座って貰うために大き目のテーブルを探したのですが丁度いいものが見つからず、それなら自分で作ろうと思い、テーブル全て作りました。 テーブル横のサイドテーブルはウエイターからの要望で作りました。その他いろいろ店内の木製の物の多くは私の手作りなんです。大工さんでも食べていけるでしょうか(笑)

 

 

―「Cafe Miro」の美味しさの秘訣は何ですか? 私もファンの一人です。

 

小林氏: 当店では「暖かいものは暖かく、冷たいものは冷たく」を心がけております。これは簡単なようですがチームワークが悪いと結構難しいものです。

 

先日お客様から「カフェミロの料理は付け合せの野菜一つ一つにもきちんと味が付いているね。彩りだけで味付けは適当な所もあるよ。」と言われました。自分では当たり前のことなので考えた事もありませんでしたが、お客様は細かい所までよく見ているなと思いました。

 

それとハワイは暑い所ですから、得に食材の管理には細心の注意を図っております。厨房をいつも清潔にしているのは当然のことですが、まな板も雑菌の繁殖を防ぐ為に使わない時は常に冷蔵庫に入れています。こうしておくと肉や魚を切る時に温まらないんです。

 

 

―最後にCafe Miroさんのこれからの展望は何でしょうか。

 

小林氏: オープンして17年になりますが、今だに隠れ家的フレンチレストランと言われたりもします。余り隠れなくてもいいんですけど(笑)

これからはもっと多くの人に知って貰えるように努力していきたいと考えています。

 

Cafe Miroは前菜・メイン・デザートの3コースで$43

前菜・お魚料理・メイン・デザートの4コースで$54なんです。

 

コースで注文したほうがお得なのですが、全ての料理をアラカルトで注文する事も出来ます。まだ来られたことのない人には是非一度食べに来ていただきたいと思います。たまにはフランス料理もいいものだと思っていただきたいです。

 

起業した限り現状維持というのは、家賃も従業員の給料も上がりますから、後退しているということです。2005年に店を倍の広さに拡張してから現在に至っている状態ですが、今後よい条件のところが見つかれば2号店の出店も考えております。 これからもホノルルになくてはならないと思われるようなレストランを目指し頑張っていきたいと思います。

 

 

カフェミロ

住所

3446 Waialae Ave, Honolulu, HI 96816 地図を見る

電話

808-734-2737

営業時間

火~日曜 17:30-22:30