ハワイの歴史

ハワイ誕生

ハワイの歴史

ハワイ諸島は数百万年もの昔、海底火山の大噴火による炎と灼熱の溶岩によって太洋の真っ只中に忽然と出現した。これら海面に点々と顔を出している陸地の固まりは、3千数百キロに渡り太平洋の海底に横たわる大火山帯の頂上にあたる。ハワイ諸島を乗せている太平洋プレートは、毎年約 2インチ(5.08cm)の速度で北西方面に移動を続けているため、この列島を形成した火山活動の原因となったマントルのホット・スポット (地球内部物質の噴出口) の上を通過することになる。現在このホット・スポットは列島の中で一番若く最南端に位置するハワイ島の真下にあると推測されている。

ハワイ州には Kule Islands (Midway島群を除く) からハワイまでの間に約125の島や小島が点在する。よく知られている8つの主だった島々は High Islands と呼ばれている。Leeward Islands と呼ばれる残りの島々のほとんどは、固まった溶岩と珊瑚礁でできた無人島でありハワイ諸島国立野生保護地となっている。全島の総面積は約16,704km2だが、現在も火山活動と珊瑚礁の増加により年々増大している。

メイン・アイランド8島の中では、北端に位置するカウアイ島 (Kauai)が地質学的に見ると最も古く4番目に大きい。同島は地球上で最西端に位置する地域のひとつであり、青々と生い茂げった草木が島全体をおおっていることでも知られている。この島のすぐ西側に位置する面積約186km2のニイハウ島 (Niihau) は個人の所有地で、住人のほとんどが純粋なハワイ人である。彼らはハワイ語を話し羊や牛を飼い、快適な生活を送るために必要不可欠な電気や水道設備などに依存しない、当然テレビも映画もない自然の生活を送っている。

ハワイ諸島の中で3番目に大きく、最も知名度の高い島がオアフ島(Oahu)で、通常ハワイを訪れる人々が最初に到達するところでもある。同島の州都ホノルルやワイキキ、ダイヤモンド・ヘッド、パール・ハーバーなどは世界有数の観光名所となっている。オアフより南東へ向かってモロカイ、ラナイ、カホオラウェ、マウイそしてハワイ島と連なる。ハワイ諸島の中で2番目に大きいのがマウイ(Maui) で、ここには標高3,055mの休火山ハレアカラ (Haleakala=House of the Sun) や、かつては捕鯨でにぎわった漁港ラハイナ(Lahaina)、豪華なホテルやコンドミニアムが林立し近代都市の様相を見せるカアナパリ (Kaanapali) やカパルア (Kapalua) などがある。押し寄せる観光産業の荒波にも呑まれることなく、いまだ最も素朴な島として知られているモロカイ(Molokai) にはパイナップル畑や大牧場がある。また、手つかずの自然も多く残されている。ラナイ(Lanai) は島の大半が私有地だがもちろん観光客もウエルカム。1922年に食品会社の大手 Dole Corp. が$110万で購入、その後ラナイ社が買収、島の98%を所有することになる。島の1/6を占めていたパイナップル畑も今では閉鎖され、2つの高級リゾート・ホテルを中心にリゾート、観光地としての変換に力を入れている。

ハワイ諸島の最東端そして合衆国の最南端に位置するハワイ島は、主 要7島を合わせた面積より約2倍大きい。標高4,200mを越えるハワイ州最高峰のマウナ・ケア (Mauna Kea) の頂上からはハワイ列島すべてが見渡せる。同島の Hawaii Volcanoes National Park 内にあるマウナ・ロア (Mauna Loa) とキラウエア (Kilauea) は活火山でありいまだに噴火を続けている。マウナ・ケアとマウナ・ロアの頂き では、常夏の国ハワイの中で唯一積雪を見ることができる。ハワイ島はハワイ州との混同をさけるため“The Big Island”または“The Orchid Island”と呼ばれている。

 

 

ハワイの歴史

神々の島 ハワイ

ハワイの歴史は西暦500年から900年の間に、マーケサスやタヒチの島々から渡ってきたポリネシア人が定住してから始まったという見方が強い。彼らは、家族をはじめ家財道具、豚や鶏などの家畜、各種の土地の植物などをアウトリッガ付きの大型カヌーに乗せて太平洋を縦断してきた。また、自然のものや現象を崇める多神教の宗教も持ち込んできた。あらゆる神々を超越したひとつの大神とその他数百にもおよぶ諸々の神々が彼らの信仰の対象となっていた。これら諸々の神々の中でもっとも信仰を集めたのは、生けるも のすべての父「カネ Kane」、戦いの神「ク Ku」、海と風の神「カネロア Kaneloa」、収穫および平和の神「ロノ Lono」の4神であった。また、火山の激しい爆発や噴火を操り破壊と死をもたらしめると信じられていた火の女神「ペレ Pele」も恐れ崇められていた。ハワイの島々にはこれらの神々を祀る神殿「ヘイアウ Heiau」の跡がいたるところに見られる。これらの信仰は当時の人々の日常生活や文化の発展に大きな影響を与えた。

初期の定住者たちは、「タパ Tapa」と呼ばれる樹皮から作った着物、カヌー、葉で覆った家などを作り、漁獲とタロイモ、果物、野菜に依存した石器時代の生活を送っていた。当時の社会、政治的構成は、中世ヨーロッパに現れた封建制度に似ていた。それぞれの島は世襲制度による「首長 Alii nui」によって統制されていた。首長は、特権階級の「廷臣 Kahuna=当時の神官、聖職者たち」や芸術、科学などに優 れた者たちに土地を与え臣下として従えていた。一般の民、主に農民や漁民たちは外敵などからの保護に対する返礼として、収穫や捕獲物の一部をそれぞれの首長たちに献上することが義務付けられていた。すべての法は「タブー制度 Kapu」の上に成り立っていおり、禁制を犯した罰はときとして死をもって償われた。

キャプテン・クックの来島

千年以上もの間これらの島々は、外の世界からの影響や妨害を受けることはなかった。この間、ごくたまに遭難者が島に漂着するぐらいで、これらの漂流者が自国に帰りハワイの島々の存在を報告したという記録は残されていない。イギリスの海軍卿サンドイッチ伯爵の後援のもとに、2隻の帆船を率いて第3次太平洋探検航海に出帆していたキャプテン・ジェームス・クックがハワイ諸島を発見、カウアイのワイメアに上陸したのは1778年1月20日のことだった。島民に友好的に迎えられたクック船長たちはその後2週間カウアイとニイハウを探検した。褐色の肌の島民たちにとってかくも蒼白い人間が生きていること自体不思議だったのか、島民たちは彼らのことを「ハオレ Haole“息をせざる者たち”」と呼んだ。クック船長はこの島々をパトロンのサンドイッチ卿にちなみ「サンドイッチ諸島」と名付けさらに北へ向けて出帆して行った。

約1年後の1779年1月17日、再びハワイを訪れたクック船長はハワイ島のケアラケクア湾に上陸、同島の探索を集中的に行なった。おりしも収穫の祭りの最中に現れたクックら一同は、島民にとって は珍しくまた不思議な献上物の数々も手伝って、収穫と平和の神「ロノ」の化身であると信じられ手厚いもてなしを受けた。ヨーロッパ人が持ち込んできたあらゆる不可思議な品物の中で一番島民の目を引いたのは何と一本の鉄の釘だった。島民たちはこの頑丈な一片の金属は釣針として使えると考えたのである。たった1本の鉄釘と有り余るほどの豚肉やヤムが頻繁に交換された。船員たちにとってこれはまさに神の恵みとも思えた。しかし、これらの友好関係も長続きはせず不幸な終焉を迎えることになる。

キャプテン・クックの来島

2月初旬、クック一行は船の修理も済み充分な休息と食料、物資の補給も終えさらに北へ向け出港したが嵐に遭遇、一隻の船のマストが折れてしまうという事故に見舞われ一端帰港する羽目におち いった。船の修理を行なっている間に、島民が救命ボートといくつかの鉄製の道具を盗む事件が起こった。ボートに使用されている釘を得るためにボートは燃やされてしまった。クックと乗組員たちは岸へ行軍し位の高い首長とその家族を人質に捕り船から盗んだものとの交換を要請した。怒った島民たちは浜辺に大挙集結、一人の船員がその群衆めがけ銃を発砲した。それが引き金となり乱戦が始まりクック船長は負傷した。それを見た島民たちはクックが神の再来ではないことを悟り一挙に襲いかかりクックを惨殺した。一週間の激しい戦いの末、ついにクックの遺体を取り戻すことに成功した船員たちは遺体を浜辺に埋葬しハワイを離れた。国に帰ってきた船員たちはハワイ諸島の発見を報告した。しかしその後約7年の間イギリスの船がハワイを訪れることはなかった。

キング・カメハメハの誕生とハワイ王朝の幕開け

1750年代の後半、ほぼ1世紀に渡りハワイの島々を完璧に統治することとなるカメハメハ1世が誕生、パワフルなハワイ王朝時代の幕開けとなる。1782年、ハワイ島を制圧し勢力を充実させたカメハメハは他の島々の制覇を計る。カメハメハの成功は、貿易や捕獲で取得したイギリスの武器や帆船、またヨーロッパの戦術の巧みな利用に帰するところが大きかった。1796年までに、カウアイを除くすべての島はこの鉄の拳を持つ‟太平洋のアレキサンダー”のもとに下った。その後彼の努力は揺るぎない政治構造を確立するために向けられた。この賢く、エネルギッシュな君主カメハメハ大王は1819年にこの世を去るまで、彼の民に永きに渡る平和と繁栄の時代をもたらせた。

ハワイに来島するアメリカ人、イギリス人などの白人 (Haoleh) —ほとんどが宣教師や貿易商、捕鯨者— たちはハワイの文化を大きく変えた。キリスト教の布教に加え、新しい来航者たちは農業、商業、立憲政体を紹介した。19世紀の後半には砂糖キビとパイナップルの栽培がはじまった。しかし、この来航者たちが持ってきたのは益になるものばかりではなかった。西洋の疫病に対してまったく免疫がなかったため、クック来島以来100年が過ぎたいま、天然痘にかかった大多数の原住民が命を失いハワイ人の人口は激減してしまったのである。

カメハメハ王銅像

▲カメハメハ王銅像

キリスト教伝来と新時代の到来

1819年、カメハメハ1世が没し長男のリホリホが即位しカメハメハ2世の世となるが、このころからハワイ島は勢力争いの激しい戦渦に巻き込まれ混乱の年月が始まった。

キリスト教伝来とハワイ新時代の到来

1820年3月、ボストンから牧師 Hiram Bingham 率いる最初のキリスト教宣教師団が来島、学校や教会の設立、新聞の発行など文化の普及に勤めた。西洋文化を啓蒙するカメハメハ2世がハワイ古来の宗教の則となっているカプー制度を廃止すると、それに乗じ多くの島民を新教徒に改宗させることに成功した。また、心地好さをもっとも重んじるためほぼ裸同然で暮らしていた土地の女性たちに、丈の長いゆったりとしたドレス、ムウムウ (muumuu) を着けることを奨励した。ちょうどこのころ、豊に茂る芳香を放つビャクダン (白檀) の需要が高まったのと捕鯨基地として理想的なハワイはヨーロッパ列強の注目を集めた。

とくに英仏の利権獲得や政治的に有利な立場を得るための攻勢はすさまじくハワイは脅威にさらされることになる。カメハメハ大王の後継者たちは外国からの干渉や王政を脅かすような要素を極力抑制してはいたものの、王の権限を制限せざるを得なくなる。

宣教師たちの影響は宗教だけには留まらず政治の面にもおよんだ。1827年、カメハメハ3世が王位に就くころ船乗りや開拓移民たちの間ではすでに、ハワイの君主政治を正当な法と認めることに 対する疑問が沸き上がっていた。ハワイの独占をもくろむ侵入者たちは、ヨーロッパの持つ力を誇示しカメハメハの支配下からの免除を強く要求した。さらに、キリスト教の教えが多くの貴族階級の人々に基本的人権を浸透させていった。これらの展開を目の辺たりにした王は、側近に政治学を修めた者を参謀としておく必要性を感じた。カメハメハ3世は宣教師団の中の信用のおける友人たちに相談をもちかけたが、本国から教師を得ることができなかったため、彼らは宣教師の一人 William Richards の聖職の任を解き王に仕えさせた。1839年、Richards の助けを借り、カメハメハ3世はDeclaration of Rights (基本的人権) と Edict of Toleration (信仰の自由) を発布、しばらく後にハワイ初の憲法がそれに続いて発布された。1842年、アメリカはハワイを立憲君主の独立国家として認めた。

モルモン教の宣教師がカリフォルニアより来島、布教活動をはじめた。アメリカ人の人口は急速に増えていった。ハワイをアメリカの属国に加えるという扇動的論争が膨らみつつある中、ハワイが砂糖の主要生産国になるやそれが頂点に達した。

1860年代の末、カメハメハ5世は絶対的権力を再び王族に復活させることを試みる。しかし、王を選ぶ慣習を制定したが継承者を名ざす前に死亡する。その後、ルナリロ王、カラカウア王と続き比較的安定した時期を迎えるが、カラカウア王の時代になると、砂糖に関税がかけられハワイ経済が低迷し、それがハワイ王朝の衰退を促すことになる。このころ、ハワイ人勢力の拡大を目指す王制復興派と砂糖業に従事する親米の白人勢とが対立、数年間に渡り争いが続くが、1893年、ついに白人たちによる無血クーデターが起こり女王リ リオウカラニは王位を剥奪される。Sanford B. Dole を長に臨時政府を設立し憲法が制定された。1世紀近く続いたハワイ王朝もついに崩壊、ここにその歴史の幕を閉じたのだった。

ハワイ王朝第八代最後の国王、リリウオカラニ女王

▲ハワイ王朝第八代最後の国王、リリウオカラニ女王

 

アメリカとハワイの関係は経済同盟を通じさらに強まっていった。翌年の1894年、ハワイ政府は共和国を宣言、1898年米国議会でハワイ併合案が通過、8月12日 Organic Act (国家基本条例) が布告されるとハワイは正式にアメリカの領土となりイオラニ宮殿に星条旗が掲げられた。日清戦争勃発の前年のことである。

1800年代の中頃から、砂糖キビのプランテーション目当てに移民の波が押し寄せた。移民の入植はパイナップルの栽培が定着する20世紀の上4半期まで続いた。日本、中国、フィリピン、スペイン、ロシア、韓国、ポルトガル、ヨーロッパ諸国からの移民たちとそのエスニック文化で混沌としたハワイはまさに人種のるつぼと化した。キャプテン・クックがカウアイ島に足を踏みいれてからわずか125年の後、純粋なハワイ人は少数民族となってしまった。

ハワイが一端アメリカの準州となるや同島は太平洋の主要な砦となった。1941年12月7日、日本軍によるパール・ハーバーやオアフの他地域に対する奇襲攻撃が、アメリカの第二次世界大戦参戦を余儀無くさせた。この攻撃によりアメリカ軍が被った軍事関係の損傷は3,500近くにも上った。日本人を祖先に持つハワイ人たちは、アメリカに対する愛国心を誇りをもって意思表示するため全員二世の“Go-For-Broke”部隊と呼ばれた第442戦闘部隊を編成した。彼らのその勇猛果敢な働きに対して部隊には10、個々の兵士たちは5,000を越える勲章を授与された。

たびかさなる申請と却下を繰り返した末、1959年3月米議会はハワイを州として認証、同年8月21日、時の大統領アイゼンハワーのアメリカ唯一の宮殿イオラニ・パレス。一八八二年建造 布告署名によりアメリカ合衆国の第50番目の州となった。

アメリカ唯一の宮殿イオラニ・パレス

▲アメリカ唯一の宮殿イオラニ・パレス。一八八二年建造